第7話 父の夢が眠る場所

ひとはきっかけがあれば、それがどんなに些細なことであっても、大きく変わることができる。
威もその例にもれず、マラソンというきっかけから、大きく変化した。
いや、変わったというよりも、本来のあるべき姿になったといえるかもしれない。
瞳に失っていた輝きがふたたび宿り、ふたたび気力と活力を取り戻したのだから。
威は、今では日課となってしまった朝のジョギングを終え、自分の家に戻った。
「ただいま」
玄関を開けると、エプロンを着けた奈菜が出迎えてくれた。
「おかえりなさい、威さん」
「奈菜、今日の昼、何か用事があるのか?」
「いえ、特にありませんけど・・・」
「そうか。それじゃ、よかったら俺と一緒に行ってほしい場所があるんだが、いいか?」
「え、ええ・・・その場所ってどこなんですか?」
控えめに尋ねる。
「ついて来れば分かるさ」
威はそれだけ言うと、シャワーを浴びるため、浴室に向かった。
「どこに行くのかしら・・・」
奈菜は威がいなくなったあと、ぽつりとつぶやいた。





その日の昼、奈菜は威に連れられ、ある場所に向かった。
そこは大きな電工掲示板と大きな時計らしきものがある池で、そのなかで変わった形のボートが6色に分かれて走っていた。
そのボートは低いモーター音を響かせながら、猛スピードで走っていた。
「威さん、ここは・・・?」
奈菜は辺りを見回しながら尋ねた。
「ここは、競艇場ってやつさ。奈菜は見たことないだろ」
「ええ・・・なんですか、その競艇場って?」
「6艇のボートがレースをするところさ。別名『水上の格闘技』と呼ばれている。俺は親父の命日には、必ずここに顔を出すことにしているんだ。俺の親父が亡くなった場所だから」
「そうなんですか・・・」
奈菜はそっと威の顔を覗き込んだ。
威は真剣なまなざしで、じっと正面の池を見つめていた。
その視線の先には、きっと威にしか見えない何かが映っていると奈菜は思った。
威はさらに話を続けた。
「俺の親父はその競艇の選手だった。勝率も4割前半しかない万年B級選手で、いつも負けてばかりいた。そのおかげで、俺は子供の頃、『負け犬選手の子供』とよく馬鹿にされた。
だから、俺は幼心に決めた。俺は親父のような負け犬にはならない。常に勝ち続けるんだと・・・」
「威さん・・・」
奈菜はじっとその横顔を見つめた。
「威さんはその・・・お父さんのことを嫌っているのですか?」
「・・・」
威は視線を愛らしい天使に向けた。
「俺は・・・レースで負けた親父は嫌いだった。でも、ここで走っている親父は好きだった・・・」
自然と口にした言葉だった。
───こんなこと今まで誰にも話したことなかったのにな・・・
素直に胸の内を語った自分に驚いた。
何故か奈菜の前では、本心をさらけ出してしまう。
これも天使の秘めた力のせいなのかと一瞬、思ってしまった。
「そうですか・・・よかった・・・」
その答えを聞いたとたん、奈菜は安堵の表情を浮かべた。
「奈菜は本当に優しいな」
「そ、そんなことないです・・・」
たちまち顔を真っ赤にさせる。
そんな彼女に対し、威は目尻を下げた。
「奈菜、俺もいつか競艇選手になって、この場所で走ってみたいと思う。そうすれば、親父の気持ちがもっと分かるかもしれないから」
威の目の前には、夢の場所が広がっていた。
親父は何を思って走り続けたのか?
どんな夢を描いていたのか?
威は父親がレース中の事故で亡くなったあと、ここに来るたびにずっと考えていた。
しかし、答えは見つからなかった。
恐らく、今の自分には知ることはできないのだろうと威は思った。
父親と同じ舞台に立たない限り、その夢を知ることができないと。
「威さんなら、きっとなれますよ、きっと・・・」
奈菜の口調は静かだったが、力強さが感じられた。
「ありがとう」
威と奈菜は、太陽の光を受けてきらめく水面をいつまでも眺めていた。