第3話 溶け始めた氷

今日は何かがおかしかった。
朝、目覚めると、異様に体がだるかった。
威は無理やり体をベッドから起こすと、制服に着替え、台所へ向かった。
台所では、奈菜が朝ごはんの準備を進めていた。
彼女がここにやって来て、まだ日は浅いが、この風景は当たり前のようになっていた。
「あ、お、おはようございます・・・」
奈菜がぎこちない挨拶をする。
「・・・」
威は無言のまま席に着くと、用意されたごはんと味噌汁を口にした。
「あ、あ、あの・・・」
奈菜がおどおどした声に反応し、威が箸を持つ手を止めた。
「あの、威さん・・・なんか顔色が悪いみたいですけど、大丈夫ですか?」
「・・・大丈夫だ・・・」
威はそれだけ言うと、席を立ち、その場から離れた。
本人は大丈夫と言っていたが、食卓に残された食べかけの食事と威の足取りを見る限り、かなり無理していることが分かった。
「威さん・・・」
台所から出ようとした威が立ち止まった。
「くれぐれも無理しないでください」
奈菜は両手を胸の辺りで組んでそう告げた。
「・・・」
威は横目で一瞥すると、何も言わずに姿を消した。
奈菜は胸騒ぎを感じながら、誰もいなくなった台所の出入り口を見つめた。
それから、時間が流れ、空が青から橙に変わり、1日がもうすぐ終わろうとしていた。
依然、奈菜の胸騒ぎは消えることがなかった。
リビングで威の帰りを待つ奈菜は、時計に目をやった。
いつもなら、そろそろ帰ってくる時刻だった。
───威さん・・・
奈菜は朝、威に休むよう言えばよかったのではないかと、少し後悔していた。
とそのとき、玄関の開く音が耳に入った。
「あ、帰ってきた」
奈菜は小走りで玄関へ向かった。
「た、威さん・・・!」
玄関に着いた奈菜は、威の姿を見てひどく驚いた。
威は荒い息遣いをしながら、壁にもたれかかるように立っていた。
「だ、大丈夫ですか!」
「くっ・・・」
威は苦しげな表情を浮かべながら、奈菜の脇を通り抜けようとした。
ところが、足がもつれ、その場に倒れそうになった。
「威さん!」
奈菜は慌てて威の体を支えた。
正面から受け止めた威の体は、燃えるように熱かった。
「すごい熱・・・早く休ませないと・・・」
奈菜は自分よりも大きい威を抱えながら、2階へ続く階段を登った。

それからさらに時が流れ、空が橙から紺、そして、白に変わった。
「ううん・・・」
威が目を覚ますと、見慣れた天井が目に入った。
「ここは俺の部屋か・・・」
威はいつの間にか自室のベッドに寝かされていることに気付き、途切れた記憶を呼び覚まそうとした。
昨日の朝、体調が悪いのを無理して学校に行き、授業が終わるまではなんとか持ちこたえていた。
それから家に戻り、奈菜と会ったあとに意識を失って・・・それから先はまったく記憶がなかった。
「あいつがここまで俺を運んでくれたのか・・・」
そのとき、ベッドの脇に誰かうつぶせになって眠っていることに威が気付いた。
「奈菜・・・」
威は穏やかな寝息を立てている天使を見つめた。
───ずっと、俺の看病をしていたのか・・・
今まで感じたことのなかった暖かい思いが、次第に沸き上がっていく。
突然、自分の前に現れた小さな天使。
天使は自分を幸せにするため、ここにやって来たと言う。
理由もなく、ただ他人の幸せを願う天使の少女は、かいがいしくいろんな世話をしてくれた。
奈菜がここに来てから、少しずつ自分の心に変化があったことを、威は知っていた。
───奈菜といるだけで、心に安らぎを感じる・・・
そんな気持ちに威は戸惑っていた。
「天使・・・か・・・」
威が無意識のうちに、奈菜の長くてきれいな髪に触れようとしたとき───
「うん・・・」
奈菜が急に目を覚まし、威は慌てて手を引っ込めた。
「あ・・・威さん・・・ご、ごめんなさい、私、つい眠ってしまって、それで・・・」
奈菜は威が目を覚ましていることを知り、慌てふためいた。
「・・・」
威は何も言わず、奈菜を見ていた。
「あ、あ、あの、もう体のほうは大丈夫ですか?」
「・・・ああ」
「そ、そうですか。よかった・・・」
ほっと胸を撫で下ろす
「それじゃ、私、今から朝ごはんを作りますから、威さんはごはんが出来るまでここで休んでいてください」
奈菜は急いで威の部屋から出ようとした。とそのとき、
「・・・奈菜・・・」
「え・・・」
初めて名前を呼ばれ、奈菜はその場に立ち止まり、振り返った。
「・・・ありがとう・・・」
威はそれだけ言うと、ベッドにもぐりこんだ。
「威さん・・・」
些細な会話であったが、奈菜は凍てついた威の心が少しだけ氷解したことを感じた。