黄昏時の太陽が白の病室を茜色に染めていく。
そんな一室のベッドに横たわるみなもを智也をじっと見つめていた。
みなもは口に人工呼吸器を当てられ、苦しそうな表情を浮かべていた。
「もって、あと1週間だと思います・・・」
先ほどまでここにいた主治医の言葉が、智也の頭の中で何度も響き渡る。
───また俺は何も出来ないままでいるしかないないのか・・・!
彩花を失ったときのことを思い出した。あのときいた無力な自分がふたたび姿を現していた。
───なんで、俺が大切に思っているひとがいなくなるんだ!!
智也は強く唇を噛んだ。握り締めていた拳が小刻みに震えていた。やり場のない憤りが体内の血液を通じて駆け巡った。
───俺はどうすればいいんだ・・・分からない・・・
もし、みなもを助けられるのなら、どんなことをしても構わない。
たとえ、悪魔に手を貸すことでも・・・
智也は窓の景色に目をやった。オレンジ色の空の上に、藍色のとばりが降り始めていた。
そこに早くも1番星が姿を見せていた。
「あの太陽が沈まなければいいのに・・・」
叶わない願いを口にする。
あと7回空の色が変わったときに訪れるのは過去の再現───孤独と絶望。
自分はどうすればいいのだろうか?
どうなるのだろうか?
答えのない問い掛けを繰り返し続けた。
己の先の運命に怯えながら・・・

「智也・・・」
「彩花?彩花なのか!?」
突然、姿を現した初恋の相手に、智也は驚きの色を隠せなかった。
「智也に聞きたいことがあって、やって来たの」
「聞きたいこと?」
「智也はみなもちゃんを助けるためだったら、どんなことでも出来る?」
彩花は真剣な面持ちで尋ねた。
その言葉に智也の目の色が変わった。
「みなもちゃんを助ける方法があるのか!?」
「・・・たったひとつだけ方法があるの。ただし、とても危険で、本当に助けられるかどうか分からないけどね」
彩花は智也から視線をそらした。
「それでも構わない。みなもちゃんを救える可能性がほんのわずかでもあるなら、俺はそれに賭けてみたい。それが自分の命と引き換えになっても・・・」
「智也・・・」
彩花は今にも泣き出しそうな表情を浮かべた。
───智也らしい答えだね・・・
心の中でそっとつぶやく。
「智也は藍ヶ丘町の南西にある島のことは知ってる?」
「確か小さい頃、唯笑が家族旅行に行った島のことだろ」
「ええ、その島にある神社に来て。私はそこで待っているから」
「その神社に何があるんだ?」
「ごめんなさい、もう行かなきゃ。詳しい話は智也が向こうに着いてから話すね」
「おい、彩花!ちょっと待ってくれ!」
智也の制止の声と同時に、彩花の姿が消えた。
「彩花!」
智也はとっさにベッドから起き上がった。
「・・・夢・・・なのか・・・」
真っ暗な部屋を見回しながらつぶやいた。
彩花の言っていた『島』に何があるのだろうか?
考えてみたが、まったく想像出来なかった。
「行ってみるか・・・島へ・・・」
ただの夢物語で終わるかもしれないが、このままじっとしていても何も変わらない。わらにもすがる思いの状況である今は、その夢に賭けるしかなかった。やらずに後悔するよりは、はるかにいいはずだ。
智也は出発に備えて、もうひと眠りすることにした。

強く吹きつける風が智也の髪を激しく揺らす。
防波堤に打ちつける波の一部が、小さな粒子となって宙に舞っていた。
夢に誘われ、智也はやって来た。彩花の待つ南西の孤島に。
───まずは神社の場所を聞かないと・・・
智也はフェリー乗り場から降りると、近くにいた漁師風の男性に神社の場所を尋ねた。
男性はなまりの強い言葉で時折、身振り手振りを交えながら、親切に教えてくれた。
智也は礼を述べると、急ぎ足で歩き出した。
それから15分後───智也は目的の場所にたどり着いた。
うっそうと生い茂る木々の間に作られた石段を見上げているうちに、自然と胸の鼓動が早くなった。
智也はいてもたってもいられず、駆け足で石段を登り始めた。
一番上まで一気に登り切ると、風化した神社が視界に飛び込んだ。そして、その入口に捜している人物が立っていた。
「彩花!」
智也は息を整える間を惜しんで、彼女のもとに駆け寄った。
「智也、私について来て」
彩花はそれだけ言うと、きびすを返して歩き始めた。
「おい、彩花・・・!」
慌てて後に続く。
先頭に立つ彩花は、神社の脇を通り抜け、細いけもの道に入った。足場が悪いうえに、斜面になっているので、智也の足に疲労が蓄積されていった。
「なあ、彩花。いったいここに何があるんだ?」
智也の質問に反応して、彩花は立ち止まって振り返った。
「詳しい話は、あとできちんとするから、もう少し待ってて」
「分かった」
ふたりは、ふたたび歩みを進めた。
智也の体力が限界になりつつあったそのとき、小さな祠が見えてきた。
───なんだ、この祠は・・・
智也は彩花の姿を見失わないように注意しながら、ゆっくり祠の中に続く階段を降りた。
中は不思議な構造をしていた。壁は自然の岩肌で作られており、何故かところどころに火の付いたランタンが架けられていた。そのおかげで通路は地下にもかかわらず、とても明るかった。
しばらく進むと、やがて大きく開けた空間に出た。
ここに入るなり、智也の注意が部屋の中心に向けられた。そこには青い光に包まれた祭壇があり、古めかしい天秤が中央に飾られていた。
「なんだ、あれは!?」
智也は思わず声を出した。
「これは『ファートムの天秤』というの」
対照的に彩花は静かな口調で答えた。
「ファートムの天秤?」
「そう、これは運命を変えることが出来る天秤なの」
「運命を変えるだって!そんなことがこの世でありえるっていうのか!」
智也は、にわかに信じがたい言葉に、声が大きくなった。
「人は生まれたとき、それぞれ定められた運命を授けられるようになっているの。しかし、運命は誰にでも平等に授けられているわけじゃない。恵まれた運命を手にする人もいれば、その逆の人もいるわ。そこで、恵まれない運命を与えられた人たちの救済と運命の平等化のために、森羅万象を司る神がこの天秤を創ったの」
「信じられないが、こうして目の前にあるんだから、信じるしかないな」
あまりにも現実離れした出来事なので、いくら彩花の言葉でも半信半疑でいることを余儀なくされた。
「智也の言い分はよく分かるわ。だけど、信じてほしいの」
「分かってる。彩花が嘘をつくわけないからな。それでこれを使って、みなもちゃんの運命を変えればいいってことだな」
智也の言葉に彩花は首を横に振った。
「ううん、ファートムの天秤で変えられるのは、自分の運命だけなの」
「おい、それは俺の運命しか変えられないってことじゃないか。みなもちゃんの運命が変わらないと意味がないだろ」
「それなら大丈夫よ。運命は多かれ少なかれ他人の運命と交わっているから、智也の運命が変われば、みなもちゃんの運命も変わるはずよ。ただ・・・」
彩花の表情が急に曇り出す。
「運命を変えるというのは、並大抵のことでは出来ないの。神が定めた摂理を人が変えようとする自体、無謀な行為だといえるわ。だから、ファートムの天秤を使ったからといって、みなもちゃんが助かる保証はないし、智也が無事でいられる保証もないわ。このあと、どうなってしまうかまったく分からないの。本当はね、智也にこんな危険な真似をさせたくなかった・・・でも、みなもちゃんも助けたいと思ったし・・・ごめんなさい・・・」
彩花の瞳から涙が溢れ出す。
「彩花・・・」
智也は彩花に近づいて、そっと抱きしめた。彼女の温もりを感じることは出来なかったが、自分の腕の中にいることは実感できた。
「ありがとう、心配してくれて。俺は絶対みなもちゃんを救ってみせる。そして、新しい運命を切り開いてみせる!」
「智也・・・そうだね、智也ならきっと出来るよね」
「ああ、やってやるさ」
智也はそう答えて彩花から離れた。
「彩花、俺はどうすればいいんだ?」
「祭壇に置いてある水晶の欠片をファートムの天秤に乗せるの」
「それだけでいいのか?」
「うん・・・」
「そうか」
智也はゆっくり祭壇に近づいた。
「智也!」
背中から彩花が呼んだ。
「私、智也とみなもちゃんが無事でいられるよう祈ってる。ずっと祈っているから・・・」
「ありがとう」
智也は笑顔で答えると、ふたたび祭壇のほうに体を向けた。
「いくぞ!」
自分自身に気合いを入れて、水晶の欠片を手に取った。小さなものだが、見た目以上の重量感があった。
智也は水晶をファートムの天秤の皿に置いた。天秤がゆらゆらと動き出す。
とそのとき───
突然、激しい頭痛とめまいに襲われた。
「・・・!」
智也は声にならない悲鳴を上げた。めまいと頭痛はさらに激しくなり、智也はその場で悶絶した。白濁していく意識の中で彩花の声が聞こえたような気がした。
言葉にならないほどの苦しみと痛みが果てしなく続く。
智也は地面をのたうち回っていたが、次第に動きが鈍くなり、やがて完全に止まった。

奇跡───それは神の見えざる手によって引き起こされる非常識な現象。
奇跡は、死のがけっぷちに立たされていたひとりの少女に光を与えた。
生きる希望という光を。
しかし、光は同時に影を落とした。影は光を飲み込み、少女から笑顔を奪った。
それから、1年という月日が流れたが、少女の顔には未だ笑顔が戻らなかった・・・

この日もみなもはある病室を訪れていた。
病を克服してから、ずっとみなもはここに足を運んでいた。
病室はみなもが入院いていたときと同じような個室で、棚には千羽鶴とか果物等の見舞いの品が置かれていた。
「智也さん・・・」
みなもはベッドの脇に置いてある椅子に腰掛け、智也を見つめた。
智也はその呼び掛けに対しても、微動だにしなかった。
今の智也は、原因不明の“昏睡状態”に陥っていて、植物人間と化しているからである。
智也は、藍ヶ丘町から遠く離れた島にある神社で倒れているのを発見され、この病院な運び込まれた。
何故、そのような場所にいたのか?
何故、こんな状態になったのか?
真相は闇の中に閉ざされたままだった。
智也の表情は、初めて見舞いに来たときとまったく変わらなかった。
そんな彼を見ているうちに、みなもは胸が苦しくなった。
───智也さんの声が聞きたい・・・元気になった私を見てもらいたい・・・
みなもの目に涙がにじむ。ここに来るたび、いつか叶うと信じていた。しかし、最近は本人の意思とは逆に、あきらめの気持ちが強くなっていった。きっと待つことに疲れてしまったのだろう。みなもは弱くなる心を必至になって支えてきたが、もう限界に近づいていた。
「智也さん・・・起きてください・・・」
幾度となく口にした言葉が、自然とこぼれた。
そのとき、ドアの開く音が耳に入った。
みなもは慌てて涙を拭った。
入って来たのは、智也の担当をしている医師だった。
「こんにちは、みなもちゃん」
「こんにちは・・・」
小さく頭を下げる。
「今日もお見舞いに来たんだね」
「はい、私に出来ることはこれぐらいですから」
みなもは自分の無力さを痛感した。
「先生、智也さんの容体はどうなんですか?」
医師はその質問に対し、小さく首を横に振って答えた。
「みなもちゃん、実は・・・」
医師はみなもの横に立って、言葉を濁した。
「なんですか、先生?」
「実は・・・今日、智也君のご両親と話し合った結果、彼に安楽死の処置をすることになったんだ・・・」
「そんな!」
みなもは勢いよく立ち上がって、医師に詰め寄った。
「どうしてそんなことするんですか!やめてください!智也さんはまだ生きているじゃないですか!」
「仕方ないんだよ・・・こうして智也君の生命を維持していくには莫大な費用が掛かるんだ。それにこういう言い方はよくないかもしれないが、1年近くも意識が戻らないなら、もう2度と自分の力で起き上がることは、まず考えられない。君もつらいと思うが、1番つらいのは彼の両親なんだよ」
医師は冷静な口調で、諭すように語った。
「そんな・・・そんなひどい・・・!」
我を忘れたみなもは、泣きながら病室から飛び出した。

すべての明かりが消えた病室には、静寂と暗闇だけが存在していた。
みなもは最後だということで特別に許可をもらって、智也のそばにいた。
───ずっとこのまま暗闇に包まれたままならいいのに・・・
朝日が昇れば、もう2度と智也と会えなくなる。そう考えただけで、胸が張り裂けそうになった。
「智也さん・・・お願いです・・・目を開けてください・・・」
みなもは涙声で訴えると、体を小さく折って智也にキスをした。
「やっぱり私からしたんじゃ駄目なんですね・・・白雪姫のようにはいかないんですね・・・」
一筋の涙が頬を伝う。
「智也さん、私、元気になったんですよ。これで智也さんと一緒にオチバミに行ったり、海に行ったりできると思っていたのに、それなのにどうして・・・どうしてこんなことに・・・」
数滴の涙が智也のベッドを濡らした。
「約束したじゃないですか・・・私が元気になったら、一緒に海に行こうって。だから、起きてください・・・智也さん・・・」
しんと静まり返った室内に悲痛な声が響き渡る。
「・・・智也さん・・・私はずっとずっと智也さんのそばにいたいです。だから、今度は天国で一緒に金色の海を見ましょうね」
みなもは、持って来たナイフを上着のポケットから取り出し、切っ先を白いのどに当てた。
と次の瞬間───
ベッドから伸びた手がみなもの細い右手首を捕まえた。
「え・・・?」
突然、起こった出来事にみなもは目を大きく見開いた。
彼女の瞳に映ったのは、2度と起き上がるはずがないと言われた最愛のひとが目覚めた瞬間だった。
「だ・・・め・・・だ・・・」
智也は握り締めた手に力を込めた。同時に乾いた金属音を立てて、ナイフが床の上に転がった。
───夢・・・ううん、夢じゃない!
右手首の痛みが現実で起こっている出来事だと教えてくれた。
「智也さん!」
みなもは智也の胸に飛び込んだ。

柔らかくて暖かい太陽の光が、公園一帯にのどかな雰囲気を漂わせていた。
一時は光を拒絶したみなもは今、この光が与えてくれた時間に感謝していた。
───神様、ありがとうございます。私の夢を叶えてくれて。
ちょっと現金かなと思いつつも、心の中でそっとつぶやいた。
長い間、見続けていた夢───大好きなひとと同じ場所で同じ時間を過ごすこと。
奇跡という名の光を手にした瞬間、みなもの夢は実現した。
「智也さん、覚えていますか?昔、ここで智也さんは私と一緒にお弁当を食べたんですよ」
「そうなんだ・・・」
智也は噴水のそばに広がる芝生をじっと見つめた。
智也は永い眠りから覚めたとき、すべての記憶を失っていた。それだけがみなもの唯一の気掛かりだった。
「・・・やっぱり思い出せない。何か懐かしい感じはするんだけど・・・」
「そうですか・・・」
「ごめん」
「そんな謝らないでください」
みなもは慌ててぱたぱたと手を振った。
「でも、伊吹さんがいろいろと親切にしてくれるから嬉しいよ。ありがとう」
「そんなこと気にしないでください。私は今までずっと智也さんに助けてもらってきたんですから。それから、私のことはみなもって呼んでください。そのほうが嬉しいです」
「あ、ごめん、みなも・・・ちゃん」
智也はそう言うと、顔を赤らめ、うつむいてしまった。
「はい!」
みなもは笑顔で答えた。
「智也さん、ゆっくり、ゆっくりでいいですよ」
ふたりの時間はたっぷりある。焦らず、ひとつずつ記憶を取り戻せばいい。
万が一、記憶が戻らなくても、それなれそれでいい。
そのときは、また新しい思い出を作ればいいのだから。
「智也さん、ゆっくり歩きましょう」
みなもは、智也の腕に自分の腕を絡めた。
ふたつの奇跡が新たなひとつの物語を紡ぎ始めた・・・