六畳一間の自室にあるベッドの上で、三上智也は眠っていた。
すでに太陽が一番高く昇ってから1時間ほど経過したにも関わらず、目覚める気配がまったくない。そのとき、突然インターホンが鳴り、智也に目覚めをもたらした。
智也は起き上がると、目をこすりながら部屋を出て、玄関のドアを開けた。
次の瞬間、智也は驚きのあまり、目を大きく見開いた。
「み、みなもちゃん?」
彼の前に立っていたのは、同じ高校の後輩である伊吹みなもであった。
───どうして彼女がここにいるんだ?
これが真っ先に浮かび上がった疑問だった。
智也がそう思うには理由があった。みなもは今、生まれつき抱えている不治の病気のせいで長期入院を余儀なくされており、外出はできないようになっていた。つまり、こうして智也の前に現れるというのは不可能なはずであった。しかし、目の前に立っているツインテールの少女は、間違いなくみなも本人だった。決して、幻覚や幽霊などではない。
「みなもちゃん、どうしてここに?」
「智也さんとデートがしたくて、病院を抜け出して来ました」
笑顔で智也の質問に答えるみなも。
一方、それを聞いた智也は顔色を変えて絶句した。
「なんだって!?なんでそんな無茶なことをするんだ!今すぐ病院へ戻ろう!」
「嫌です!」
みなもは近づこうとする智也に向かって、拒絶の意を示した。
「お願いです、智也さん。今日、少しだけでいいですから、私とデートしてください。デートしてくれたら、ちゃんと病院へ戻りますから・・・」
「みなもちゃん・・・」
智也はじっとみなもを見つめた。懇願する彼女のまなざしには、強い決意が秘められており、それを覆すのは至難の業だと感じた。病院を抜け出してまでの申し出だ。きっとよほどのことがあっての行動であろう。みなもをそこまで駆り立てるものが何なのか智也には分からなかったが、彼女のひたむきな気持ちを目の当たりにし、病院へ連れ戻すことをあきらめた。
「分かった。みなもちゃんと一緒にデートしよう。でも、ひとつだけ約束してくれ。もし、途中で具合が悪くなったら、絶対に言ってくれ」
「分かりました。ありがとうございます、智也さん」
みなもは安堵の色を浮かべながら頭を下げた。

智也とみなものデートは近くの公園で行われた。ここはみなもが独自に考えた「おちばみ」というイベントをやった場所でもあり、ふたりの初デートのコースでもあった。ちなみに「おちばみ」というのは、銀杏や紅葉の下でお弁当を食べながら談笑をするというもので、日本の春の伝統行事「お花見」の秋バージョンのことを意味している。
智也はみなもと公園の中を散策しているあいだ、ずっと気が気ではなかった。可愛い年下の女の子とのデートなので、通常なら心が弾むほど楽しめるはずなのだが、残念ながら今の智也にはそんな余裕などなかった。何しろ、相手が入院していなくてはならない病人だからだ。
───やっぱり今すぐ病院へ帰らせるべきだ。
智也はそう決心し、実行に移そうとした。
「智也さん・・・」
とそのとき、みなもがその機を制するかのように立ち止まって口を開いた。
智也をまっすぐ見据える彼女の瞳にはふたつの感情の色が宿っていた。
ためらいと悲哀。その感情の気配を察した智也は、真剣な面持ちで彼女の言葉を待った。
みなもは、しばしの沈黙を作ったのち、ふたたび語り始めた。
「智也さん、今日から私のことを忘れてください・・・」
「な、何を言っているんだ!そんなことできるわけないだろ!だいたい、なんでそんなことを急に言うんだ?」
智也はみなもの唐突な発言に驚愕の色を隠せなかった。
「ごめんなさい・・・でも、もう私のことは忘れてください」
みなもはただそれだけを言うと、急にきびすを返して走り出した。
「みなもちゃん!」
智也は間髪いれずにみなものあとを追った。そして、2、30メートル走ったところで、彼女の左手をつかむことに成功した。
「放してください!」
みなもがその手を振りほどこうとする。しかし、女の子のか弱い力では、ささやかな抵抗にしかならなかった。
「いや、放すわけにはいかない。もう一度聞くけど、どうして忘れろなんて言うんだ?」
智也は静かな口調で尋ねた。
「そうすることが智也さんのためになんです!私は近い将来、智也さんのそばからいなくなってしまいます。そうなってしまうと、智也さんを悲しませてしまいますから、今のうちに私のことを忘れてほしいんです!」
みなもは智也に背を向けたまま、声を震わせて答えた。
「みなもちゃん!」
智也は、みなもをつかんでいる腕に力を込めると、強引に彼女を引き寄せた。
「もし、そうだとしても俺はみなもちゃんを忘れることなんてできない。俺はずっとみなもちゃんのそばにいて、みなもちゃんのことを思っていたいんだ。俺はみなもちゃんのことを愛しているから・・・」
みなもを抱きしめながら胸のうちを語る。これがみなもに対する旗幟鮮明の思いであった。
「そんなこと言っちゃ駄目です・・・お願いですから、私のことは忘れてください・・・でないと、今日で最後だって決めた私の気持ちが崩れてしまいますから・・・」
みなもは智也の胸に頬を埋めたまま、嗚咽まじりの声で訴えた。
「俺はどんなことがあってもこの気持ちを変えるつもりはない。だから、みなもちゃんのことを好きでいさせてくれ」
智也の言葉に、みなもが涙で濡れた顔を上げた。
「智也さん、本当にいいんですか?私みたいな女の子を好きになったら、きっと後悔しますよ。それでもいいんですか?」
「俺は後悔なんて絶対にしない。たとえ、どんなにつらくて苦しい結末が待っているとしても、この思いだけは捨てたくない」
智也の頑なでまっすぐな思いを伝えた。その瞬間、ふたたびみなもの瞳から心のしずくが溢れ出た。
「智也さんは優しすぎます。でも、私はそんな智也さんが大好きです。もし、許されるのなら、私も智也さんのことを好きでいたいです。智也さんのことを好きでいてもいいですか?」
「ああ」
智也は大きくうなずくと、そっとみなもを抱きしめた。両腕の中にある温かさが言葉に表せないほどの心地よさをもたらす。すべてをかけて愛したいひとがここにいる。そう思うだけで、智也の胸は熱くなった。
恐らく、この先で智也を待っているのは過酷な現実だろう。できるものなら避けたいというのが本音だが、それは事実上不可能なことであった。もっとも、完全に可能性がないというわけではない。しかし、限りなくゼロに近い可能性だった。薄氷のような希望にすがるぐらいなら、あえて覚悟を決めておいたほうがいい。夢物語のような希望を信じて裏切られたとき、その反動で大きな絶望感を味わうからだ。
だから、みなもが生きているあいだ、一分一秒でも長く彼女のそばにいて同じ時間を過ごし、全身全霊をもって愛したい。これが智也の新たな決意だった。
「みなもちゃん」
智也は愛しい女性の名前を呼ぶと、自分の誓いを伝えるかのように口づけをした。