心のクレッシェンド(メモリーズオフ2ndサイドストーリー)

心のクレッシェンド

白河家の2階にある一室では、いつものようにピアノの音が流れていた。
静流は、その部屋に向かう途中でその調べを聞き、表情を曇らせた。
「ほたる・・・」
静流は一瞬、立ち止まって妹の名を口にした。
そのピアノの音には、目には見えない異変があった。
曲そのものには何の問題もない。
そつなく弾いているといえる。
しかし、技術では計ることのできない『何か』が大きく乱れていた。
普段なら、ほたるのピアノには満ち溢れんばかりの輝きと躍動感があったが、今のピアノにはそれがまったく感じられなかった。
暗く澱んだというのがふさわしいほど、ピアノが荒んでいた。
しばらく立ち尽くしていた静流は、意を決して妹の部屋を軽くノックした。
「お邪魔するわね、ほたる」
静流は慎重にドアを開け、中に入った。
室内では、ほたるが一心不乱でピアノの鍵盤を指で叩いていた。
その表情にはいつものような穏やかな笑顔はなかった。
その愛らしい顔には、焦燥感と悲壮感が浮かび上がっていた。
いつからこんなふうに変わってしまったのか?
静流は妹の変化の理由を知っていた。
なぜなら、その大きな要因が自分にあったからだ。
ほたるは今、恋人とうまくいってなく、不安を抱えていた。
その原因は静流自身にあった。
無論、静流もそのことに気付いていた。
すべてはほたるの恋人───伊波健に対し、今まで感じなかった思いが芽生え始めたことから始まった。
それは口してはいけない思い・・・禁断の恋と呼べる代物だった。
何故、そんなふうになってしまったか静流は分からなかった。
しかも、悪いことに伊波健のほうも、次第にほたるより自分に好意を寄せ始めていた。
口にこそ出さないが、彼の言動や行動を見れば、それはすぐに分かった。
事態はまさに最悪の方向に向かっていた。
妹の最愛のひとを横取りすることなど、あってはならない。
それだけはどんなことがあっても避けなくてはならない。
そう思う気持ちとは裏腹に、伊波健に対する思いは反比例して募っていくばかりだった。
───あのひとのことはあきらめないとダメ・・・好きになってはダメ・・・
心の中で何度もリフレインさせるが、それがかえって揺れる気持ちをさらに強めてしまった。
「・・・お姉ちゃん・・・」
とそのとき、ピアノの音が止まった。
ほたるが演奏を中断させたようだった。
「邪魔してごめんなさい。実はね今、新しいサマープティングを作ってみたの。もし、きりがよかったら休憩しない?」
「そう・・・せっかくお姉ちゃんが作ってくれたから食べるね」
ほたるは表情を固くしたまま、椅子から立ち上がった。
ついこのあいだまでは、静流がお菓子を作ると、心底嬉しそうに笑っていた妹の姿は、もうここにはなかった。
静流はそんな彼女を見て、胸の奥が激しく痛んだ。
「お姉ちゃん・・・」
不意にほたるが声を掛けてきた。
「な、なあに?」
突然、話し掛けられて静流はドキッとした。
「・・・何でもない。先に降りるね」
しばらく姉を見つめたあと、ほたるはひとりで部屋から出ていった。
「ほたる・・・」
静流はほたるが出て行った部屋の出口をじっと見据えた。
───私はなんて罪深い女なのかしら・・・
自己嫌悪に陥る。
それでも静流の心が奏でる思いの旋律は、止まることがなかった。
ほたるの心の旋律を乱しながら、クレッシェンドしていた。
その調べはまさに、これからのふたりの絆と思いを大きく揺るがす予定調和を帯びたメロディだった。
「ごめんね・・・ほたる・・・」
静流の目から一筋の涙が頬を伝った。