医師と看護婦が慌ただしく駆け回る病院の一室は、重苦しい雰囲気に覆われていた。そんな病室の片隅で、三上智也は悲痛な表情で、事の成り行きを見守っていた。
「みなもちゃん・・・」
智也はベッドの上で、苦しそうに横たわっている少女の名をつぶやいた。
みなもの危篤の知らせを受け、彼女の両親よりも早く駆けつけたのだが、今の智也に出来ることといえば、ただ無事を祈るしかなかった。
そんな無力な自分に憤りを感じられずにはいられなかった。
「智也君、だったかな?」
みなもの担当の医師が智也へ近づいた。
「先生!みなもちゃんの容態はどうなんですか?」
智也の必死の問い掛けに気おされて、半歩後ろにさがった。
「彼女が君と話したいと言っている。早く行ってあげなさい」
医師にうながされ、智也はみなものいるベッドへ向かった。
「みなもちゃん!」
智也の呼びかけに、みなもはうっすらと目を開け、弱々しく微笑んだ。
「智也さん・・・よかった・・・来てくれて・・・」
「しっかりするんだ、みなもちゃん!約束しただろ、もう一度、一緒に海に行くって!」
「そう・・・でしたよね・・・私も・・・もう一度・・・智也さんと・・・海に・・・行きたいな・・・」
苦しそうに話すみなもの姿に、智也は今にも泣き出しそうになった。
「病気なんかに負けちゃ駄目だ!早く元気になって、俺と海に行こう!ううん、海だけじゃなく、いろんなところに行こう!」
智也はみなもの手を強く握った。その手をみなもも握り返す。
「智也さん・・・最後の・・・わがまま・・・言っても・・・いいですか・・・」
「最後だなんて・・・」
智也の言葉を遮るように、みなもは話を続けた。
「智也さん・・・今度・・・う・・・できたら・・・もう一度・・・私を・・・さ・・・
してください・・・」
とぎれとぎれの言葉を伝えたあと、みなもは手を握ったまま、目を閉じた。
「みなもちゃん!みなもちゃん!」
智也の必死の呼びかけに、みなもは二度と答えることはなかった。
桜の季節を目前に、伊吹みなもは16年の短い一生を終えた・・・

みなもの死から一週間後───
智也にとってこの一週間は、重要な期間だった。ある結論を導き出すために・・・
智也は学校をさぼり、ある場所に向かうべく家を出た。たどり着いた場所は、灯台のある岬だった。
智也は岬の縁に立って下を見た。夕日に照らし出された海は、茜色に染まっていた。
───みなもちゃん・・・
智也は最後にみなもと海を見たときのことを思い出した。
みなもは短い命と知っていながら、前向きに生きていた。智也は自分にないものを持っていたみなもに次第に惹かれ、愛しく思うようになっていた。
智也はどんなことをしても、みなもを助けたかった。しかし、みなもの運命を変えることは出来なかった。初恋の相手である桧月彩花を守れなかったときと同じように。
死は形こそ千差万別だが、誰にでも平等に訪れる。差があるとすれば、遅いか早いかだけである。無論、智也とて例外ではない。
───俺はなんで生きているんだ。二度も大切なひとを守れなかったのに・・・
自分自身に毒づく。
───もう俺はここにいる理由はないんだ。
智也はみなもが最後に残したわがままを思い出した。はっきりと聞き取ることは出来なかったが、みなもが何を言いたかったかは、だいたい理解できた。
しかい、それはまだ“憶測”にすぎない。この“憶測”を“確信”に変えるため、智也はある決断を下し、ここにやって来たのだ。
智也は大きく深呼吸をして、一歩前に踏み出した。はるか下に広がる海が、智也の体を凍りつかせた。
「うわああああ!」
智也は雄たけびをあげながら、身を前方に躍らせた。
猛スピードで落下する智也の目に、茜色の海が飛び込んできた。
そして、次の瞬間、海が茜色から黄金色に変わった。
こうして、三上智也の存在は、黄金色の母なる水の大地に抱かれ、完全に消滅した。

智也はひとりぼっちだった。暗闇が広がる空間のなかで。
智也は走った。この世界から出るために。
しかし、どこまで行っても、あるのは深淵の闇だけだった。
智也は息をきらしながら、その場に立ち止まった。どれくらい走ったのだろうか?どこへ向かっているのだろうか?果てしなく続く闇が、智也の体力と気力を奪っていった。
(無駄だ。おまえはここから出ることはできん。あきらめろ)
突然、冷たい声が何処からともなく発せられた。
その声に反応し、智也は辺りを見回した。が、まわりには自分の他に誰もいない。
「誰だ?」
智也の問いに謎の声は答えず、会話を続けた。
(あきらめろ。おまえには絶対出来ない。現実から逃げたおまえにはな)
「違う!俺は現実から逃げてはいない!俺はただ・・・」
智也はかぶりを振って叫んだ。
(おまえの思っていることは、弱い自分に対する免罪符にすぎん。思い知るがいい、自分の弱さを!)
謎の声がそう告げた瞬間、智也は別の世界に飛ばされた。
気がつくと、智也は雨が降りしきる歩道の上に立っていた。
すぐ目の前には、白い傘を差した少女がいた。
「彩花!」
智也は駆け寄ろうとしたが、見えない壁に阻まれ、身動きが取れなかった。
「彩花!俺だ、智也だ!」
壁を叩いて叫ぶが、見えない壁は声をも遮った。
彩花は信号が青になったのを確認して、横断歩道を渡ろうとした。そこに信号無視をしたトラックが突っ込んで来た。
「彩花!逃げろ!逃げるんだ!」
智也の呼びかけも虚しく、次の瞬間、にぶい音と同時に彩花の体が宙を舞った。
彩花は地面に叩きつけられ、おびただしい量の血が雨と一緒に流れ出した。主を失った白い傘が、寄り添うように舞い降りた。
「彩花!あやかあああっ!!」
身動き出来ない智也は絶叫した。心に耐えがたい痛みが走る。
ふたたび世界が変化した。
今度は病院の一室だった。ここは智也がよく知っている場所だった。何度も足を運んだ場所だからだ。
病院のベッドでは、みなもが本を読んでいた。
彩花のことで大きなショックを受けた智也は、ここから逃げたいという心境にかられた。
みなもの身に何かが起こるという予感が恐怖となって、智也の心を支配した。
不意にみなもが苦しそうな表情を見せた。手から本が落ち、そのあと、口から大量の血を吐いて倒れた。
「苦しい・・・智也さん・・・助けて・・・」
みなもは苦しみながら、血まみれの手をこちらに伸ばした。
「みなもちゃん!」
智也はみなものそばに駆け寄ろうとしたが、やはり不可思議な壁に邪魔された。
「どうして・・・助けてくれないの・・・」
みなもは恨めしそうに智也を見た。
「みなもちゃん!くそおおお!」
智也は透明の壁を何度も叩いた。しかし、ふたりの距離が縮まることはなかった。
再度、心に激しい痛みを感じた。
「うわあああああ!」
智也はその場にうずくまった。ふたたび暗闇の世界が広がった。
「やめろ!もうやめてくれ!」
ふたつの悪夢は、繰り返す波となって智也に襲いかかった。彩花とみなもの悪夢が交互に浮かぶたび、智也の心はズタズタに引き裂かれた。
(やめてほしいなら、目の前にある短剣で、自分の胸を刺せばいい)
心の激痛を堪えながら目を開けると、手の届く場所に今までなかった短剣があった。
───苦しい・・・こんなに苦しいなら、いっそのことあの声のいうとおりに・・・
智也はゆっくりと短剣に手を伸ばす。
(そうだ、その短剣で胸を貫け。そうすれば、すぐ楽になる)
甘美な誘惑に負けて、短剣に触れたそのとき───
「智也さん・・・智也さん・・・」
聞き覚えのある声が耳に入った。
「みなも・・・ちゃん?」
智也は驚きの表情を浮かべた。
「智也さん・・・負けないで・・・」
暗闇の中で響き渡るみなもの声が、崩壊寸前だった智也の心を救った。
───俺はこんなところで立ち止まっているわけにはいかないんだ!
智也は今、残っている体力と気力を奮い起こして立ち上がった。
「俺はあきらめない!どんなに時間がかかっても、どんなに苦しくても、絶対にあきらめない!みなもちゃん、俺を導いてくれ!」
智也は限りなく続く絶望と戦いながら、ふたたび走り出した。
愛しいひとの声を頼りに・・・

少年は穏やかな日差しを浴びながら、風と共に公園の中を走っていた。無邪気な笑顔を浮かべながら。少年は砂場のまわりを一周したあと、小さな噴水に向かった。その途中で、少年は小石につまずいて転んでしまった。
「痛いよお」
少年の笑顔が泣き顔に変わる。
「大丈夫?」
倒れた少年にポニーテールの少女が駆け寄った。
「膝を擦りむいちゃったよお」
少年は半ベソをかきながら右膝を押さえた。
「これ、使って」
少女は、スカートのポケットからハンカチを取り出して差し出した。
「ありがとう」
少年はハンカチを受け取ったあと、じっと少女を見つめた。少女も少年を見つめた。
「私・・・あなたのこと、知ってる」
「僕も君のこと、知ってる」
「なんで、私のこと知ってるの?」
「わかんない。君はどうして僕のこと知ってるの」
「分からない」
ふたりは同時に首をかしげた。
「あなたの名前、教えてくれる?」
「僕は瓜生智也っていうんだ。君は?」
「私はみなも・・・飯塚みなもっていうの」
「みなもちゃん・・・」
「智ちゃん・・・」
お互いに相手をまじまじと観察する。
「みなもちゃん、よかったら一緒にあそぼ」
「うん、いいよ」
みなもはにっこり微笑んだ。
「何しようか」
「私、ふたりで砂のお城が作りたい」
「いいよ」
みなもと智也は手を繋いで砂場へ向かった。
そんなふたりをじっと見つめる老婆がいた。老婆は猫を膝の上に抱えながら、ベンチに腰掛け、涙を流していた。
「おばあちゃん、どうして泣いてるの?」
老婆のそばにやって来た髪の長い少女が、心配そうに声を掛けた。
「あのふたりを見ていたら、急に涙が出てきたんじゃよ。年を取ると、涙腺が弱くなってしまうのかのう」
少女は老婆の言葉の意味が分からず、不思議そうな顔をした。
「彩花、ひとりで遊んでいても退屈じゃろ。よかったら、あのふたりの仲間に入れてもらっておいで」
「うん、分かった。それじゃ、行って来るね」
彩花と呼ばれた少女は、智也とみなものいる砂場に向かって駆け出した。
砂場で遊ぶ三人の子供たちは、暖かい光と風の祝福を受け、新しい思い出を刻み始めた。